【初めての海外 ---西ドイツ,ウィーン,パリ】

 この項は「コラム」にあった短いものに加筆しました。「コラム」からもリンクしています。

 初めての海外出張は、昭和56年(1981年)の春、関西経済連合会の日独経済会議ミッションに同行した時だった。パスポートをもらって海外へ出るのも、この時が初めてだった。いまと違ってアンカレッジ経由。乗り継ぎだが、初めて足を踏み入れた外国の地(空港)で、初めて聞いたアナウンスは日本語だった。空港の売店は日本人でいっぱい。店員も日本語を話せる人ばかり。ちょっと拍子抜けがした。

 当時払った飛行機代は約80万円。ミッションとはいえ、日本を発つのはバラバラで、現地で合流する人が多かったため、団体扱いにならないうえ、今のような安売り切符もなかったためかもしれない。その代わり、一種の周遊券のようなもので、ウィーンに飛んだりパリ経由で帰国したけれども、追加料金はいらなかった。

 まずスイスへ行くミッションとハンブルクでいったん分かれて、単独行。東洋紡ハンブルクの松下さんのお世話で数カ所取材したあと、鉄道でデュッセルドルフへ。ドイツ語がチンプンカンプンなので、一番安い切符で一番高いコンパートメントにもぐりこんだ。席はいっぱい空いているのに、途中から乗ってきたオバサンに何やらドイツ語で怒られたらしいが、そこが指定席だとは知らなかった。

 見事な時差ぼけで食欲もなく、デュッセルドルフ駅の片隅でスーツケースに腰掛けて、しばらくホーッとしていた。売店でパンを買ったものの、結局食べられなかった。ホテル・インターコンチネンタルに辿り着いて部屋に落ち着いたら電話。女性の声で“Interpreter ?”と言う。「通訳?何のこっちゃ」と一瞬、間が空く。時差ボケの頭でもピ〜ンときた。その道の女性がフロントと提携しているらしい。丁重にお断り(“No! No!”と言うだけだが)して爆睡してしまった。夜も「寿司でもどうですか?」と言われたが、食欲はなく、素うどんをいただいた。

 一日、デュッセルドルフから鉄道でケルンまで行ったときは、車掌さんがメモを書いて渡してくれるので、何かと思ったら追加料金(指定料金?)だった。ハンブルクから乗ったときは、こちらの英語がわからないので「ダンケシェーン」で行ってしまったのだが、2度目は通用しなかった。ケルンでは、日本の住宅メーカーの団地を取材したあと、ケルン大聖堂やケルンの街をブラブラ観光した。

 土・日曜日はデュッセルドルフにいても仕事にならないので、ウイーン(写真上)に飛んでミッション一行と合流。シェーンブルン宮殿や有名な音楽家の墓地などを観光、またデュッセルドルフに戻った。ドイツでの会議は無事に終わり、ロマンチック街道、ライン下り(上り?)を楽しんだ。ローレライ(写真中)は言われて初めて「これが」という小さな平凡な丘であった。このあと、またミッションと分かれてパリへ。

 出発直前にミッテラン氏が大統領に当選したため、急遽「パリにも行け」と言われ、ほとんど準備なしのフランス訪問となった。まずジェトロに電話すると、女性が出て言うのには?目指す相手は休みらしい。学生時代に習ったフランス語は見事に脳みそから消えており、シドロモドロ。何とか通じて翌日お邪魔してわかったのは、私が電話で話した女性は日本人だったこと。以来、まず「もしもし」と言うことにした。

 フランス外務省の交換嬢は何回かけても、英語で聞いたので切られてしまった。仕方なく日本に電話して懇意にしていた商社の方にアポイントを確認してもらった。取材の本番はもちろん大枚をはたいて通訳を頼んだ。取材の合間にタクシーを使ったり、地図を頼りに歩いたりで、凱旋門、エッフェル塔、ノートルダム寺院(写真下)など定番の観光もしっかりやった。エッフェル塔を目前にグルグル迷うタクシーの運転手に“Do you Know the way ?”と怒鳴ったら、メーター料金からまけてくれたから、あのグルグルは芝居だったのだろう。4日間も安ホテルに泊まって過ごしたパリは、その後の海外取材に比べ一番印象深く、楽しかった。 inserted by FC2 system